「売却価格をあと3割上げられませんか?」
これは、かつて私がM&Aアドバイザーとして担当した、ある地方老舗メーカーの社長からの一言です。
譲渡先との基本合意(LOI)直前でしたが、提示価格にどうしても納得がいかない様子でした。
実際、その企業は安定した顧客基盤を持ち、財務も健全。
しかし、買い手が提示した価格は、その魅力を正しく評価したとは言い難いものでした。
なぜか?
原因は、提出していた「事業計画書」の中身にありました。
M&Aにおける事業計画書(Business Plan)は、単なる数字の羅列ではありません。
それは、経営者の意思と、企業の未来を買い手に伝える「提案書」そのものです。
特に企業価値5億円を超えるM&Aでは、買い手も慎重かつ冷静に将来のリターンを見極めようとします。
彼らは「この会社を買って本当に価値があるのか」「投資資金はいつ回収できるのか」という視点で、計画書を1ページずつ精査します。
逆に言えば、買い手の思考を先回りして構成された事業計画書には交渉を有利に導く力があります。
過去の売却案件でも、“計画書の再構築”だけで、買収価格が30%以上改善された事例も珍しくありません。
では、どのようにすれば、買い手が「この会社に投資したい」と思えるような事業計画書が作れるのでしょうか?
本記事では、私がこれまでM&A実務の現場で見てきた数々の交渉経験をもとに、
買い手が注目する具体的なチェックポイントや、価格を最大化する計画書作成の7ステップを解説します。

谷口 友保
株式会社M&Aコーポレート・アドバイザリー
1971年埼玉県上尾市生まれ。1994年東京大学経済学部経営学科卒業、同年公認会計士2次試験合格。翌年同学部経済学科を卒業後、三和銀行(現三菱UFJ銀行)に入行。1996年にM&A専門の株式会社レコフへ。2007年、株式会社M&Aコーポレート・アドバイザリーを設立し代表取締役に就任。
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事業計画書がM&A成功の鍵を握る理由
なぜ事業計画書が「企業の履歴書」と呼ばれるのか
M&Aの現場で、事業計画書はしばしば「企業の履歴書」に例えられます。
なぜなら、それが買い手にとっての第一印象を決める資料であり、将来の収益力を見極める“入口”となるからです。
企業価値(バリュエーション)の算定は、通常「将来キャッシュフローの現在価値(DCF)」をベースに行われます。
つまり、将来の利益をどれだけ信頼できるかによって、買収価格が大きく上下するということです。
例えば、ある食品メーカーの案件では、最初に提出された事業計画書がざっくりとした数字のみの構成で、成長戦略も抽象的なものでした。
そのため、買い手からの初期提示価格は、EBITDA倍率で約4倍と控えめな水準。
このように、事業計画書は企業の“未来の姿”を買い手に見せるレンズです。
作り込みの精度がそのまま企業価値に跳ね返るため、「とりあえず作って出す」レベルでは大きな機会損失になりかねません。
企業概要書(IM)との違いと使い分け戦略
ここで誤解されやすいのが、「IM(Information Memorandum/企業概要書)があるから、別に事業計画書はいらないのでは?」という考え方です。
IMは、仲介会社やFA(ファイナンシャル・アドバイザー)が作成するもので、過去の業績、組織図、取引先構成などの現状情報を客観的にまとめた資料です。
一方、事業計画書は「未来を語る資料」であり、経営者自身の言葉で「この事業はこう伸びる」「この組織なら次の5年でこう変われる」と説明するためのものです。
両者の役割は似て非なるもの。
戦略的に使い分けることで、買い手の関心度合いや評価を大きく高めることができます。
たとえば、IMで基本情報に興味を持った買い手が「もっと詳しく知りたい」と感じた際、事業計画書で将来像まで示せれば、次のステージ(面談・DD)への移行がスムーズになります。
実際、M&A交渉において「買い手の経営陣や投資委員会が最後まで目を通すのは事業計画書だった」というケースも珍しくありません。
そのため、経営者としてのビジョンや現実的な達成手段を“数字とストーリー”で語れることが、交渉を優位に導く鍵なのです。
次は、買い手企業の視点に立ち、「どこをチェックしているのか?」という本音に迫ります。
計画書のどの部分が価格査定や最終意思決定に影響を与えるのか、実務の視点で深掘りしていきましょう。
買い手企業の本音:チェックポイントを徹底解説
財務数値の妥当性を判断する3つの視点
買い手企業が事業計画書を手にしたとき、まず目を通すのは「数字」です。
特に、売上・利益の推移とその根拠については、ファーストインプレッションで“現実味があるか”を判断しています。
私がこれまで支援してきた案件で、買い手が重視していた視点は次の3点です。
① 売上計画の裏付け
単なる前年比〇〇%成長というだけでは不十分です。
買い手は「どうやってその売上を獲得するのか」を具体的に知りたがります。
たとえば、
- 特定の大口顧客との継続契約があるか
- 市場自体の成長率に裏付けられた数字か
- 営業戦略や新規チャネル開拓の具体性があるか
あるIT企業では、SaaS事業の月次MRR(Monthly Recurring Revenue)が安定成長しており、解約率(チャーンレート)も2%以下でした。
こうしたデータを根拠に売上計画を組んだところ、買い手から「信頼性が高い」と即座に高評価を得ることができました。
② 利益率の実現可能性
売上が増えても、利益が伴わなければ企業価値には反映されません。
買い手は業界平均と照らし合わせて、「この利益率は実現可能なのか?」を見極めます。
たとえば、飲食業で営業利益率15%と書かれていれば、「そんなに出せるのか?」と疑念を持たれかねません。
ここでは、販管費の内訳・人件費構成・既存のコスト改善策の実行状況などを明記し、実現性を定量・定性両面で説明する必要があります。
③ 投資回収期間(Payback Period)
これは特に投資ファンド系の買い手が重視する指標です。
「この企業をいくらで買って、何年で回収できるのか」——いわば買収の採算性です。
たとえば、5億円で買収し、年間EBITDAが1億円なら、単純に5年で回収できます。
ただしその1億円が一過性でないか、安定して出せるかが焦点です。
この点で、「実態損益」への調整が非常に重要になります。
オーナー給与や私的経費、遊休資産の維持費など、買い手から見て“実際にはかからないコスト”を除いた正味の収益力を明示することが求められます。
ストラテジック・バイヤーとファンドの違いを理解する
もう一つ、事業計画書を作るうえで見落とされがちなのが、「買い手の種類によって評価軸が異なる」という点です。
主に買い手は大きく2タイプに分類されます。
① ストラテジック・バイヤー(事業会社)
同業または隣接業界の企業が、自社の成長戦略の一環として貴社を買収するケースです。
このタイプの買い手は、シナジー(相乗効果)を重視します。
たとえば、
- 自社の販路に載せられる商品があるか
- 地域的補完ができるか(例:関東×関西)
- 研究開発力の強化につながるか
ただし、同時に「統合後の企業文化が合うか」「キーパーソンが残るか」といった人と組織の相性にも敏感です。
計画書には、シナジーの定量化だけでなく、文化・価値観のすり合わせ可能性も示すことが望まれます。
② 投資ファンド(PEファンドなど)
彼らは「成長ポテンシャルの高い会社に投資し、数年後にExit(売却)して利益を得る」のが目的です。
よって、現状の収益力+改善余地の大きさが評価の中心となります。
この場合、現経営陣がどれだけ“変革を実行できる素地”を持っているかが見られます。
たとえば、マニュアル整備の進捗、財務の透明性、指標管理の制度化など、“再現可能な経営”ができるかが重視される傾向にあります。
このように、買い手によって関心を持つポイントは異なります。
そのため、計画書の内容も「誰に読ませるか」を意識してカスタマイズすることが極めて重要です。
実践!説得力のある事業計画書の作成7ステップ
ステップ1:実態財務の「見える化」から始める
事業計画書作成の第一歩は、「ありのままの数字」を整えることです。
ここでいう「ありのまま」とは、オーナー経営に特有の私的要素を除外し、企業本来の収益力を可視化するという意味です。
たとえば、次のような調整を行います。
- オーナー一族への高額役員報酬や、家族名義の給与の見直し
- 実態にそぐわない福利厚生費や社用車のプライベート使用分の除外
- 遊休資産(稼働していない設備や土地など)の切り分け
こうした調整を通じて、「実態損益(Adjusted EBITDA)」を算出することで、買い手が本来の収益力を判断できるようになります。
このプロセスは、将来の利益計画にも現実味を与えるための前提条件です。
また、将来的に買い手から実施される財務デューデリジェンス(財務DD)を見越して、先手を打つことができるのも大きなメリットです。
私は常に、事業計画書の作成と同時に、財務の専門家による実態把握をすすめています。
後からボロが出ると、信頼は一瞬で失われます。
ステップ2:市場分析とポジショニングの明確化
「この会社はなぜ今後伸びるのか?」——この問いに買い手が納得できるよう、客観的な市場分析を資料に組み込みましょう。
具体的には、以下のようなエビデンスが有効です。
- 業界団体やシンクタンクが発表する市場成長率・市場規模
- 顧客満足度アンケートやリピート率など、自社の競争優位性の裏付け
- 競合他社との比較(シェア、価格帯、ブランド力)を示すデータ
たとえば、私が支援したSaaS企業では、「国内SaaS市場が年平均13%成長中」という外部データに加え、自社のMRR・チャーンレートを提示。
さらに顧客満足度調査で90%以上のスコアを示したことで、「市場も伸びるし、この会社の顧客は定着している」と強く印象付けることができました。
この段階で注意すべきなのは、「資料作り」ではなく「戦略の再点検」であることです。
市場環境を俯瞰することで、自社の立ち位置や伸びしろを冷静に見直せます。
その結果、計画の現実味も高まり、買い手からの信頼にもつながるのです。
ステップ3:将来シナリオを「背伸び」と「現実」のバランスで描く
事業計画書の核心は、やはり将来像(3〜5年後の売上・利益の見通し)です。
しかし、この数値目標が「楽観的すぎる」と買い手は一気に警戒し、「保守的すぎる」と魅力を感じなくなります。
では、どこに落としどころを置くべきか?
私が提案しているのは、「ベース・アップサイド・ダウンサイドの3シナリオ提示法」です。
これは、以下の3パターンで事業の将来像を描く方法です。
- ベースケース:業界平均に沿った堅実な成長
- アップサイド:投資やシナジーによって実現する高成長(新商品、新規市場開拓など)
- ダウンサイド:景気悪化や顧客喪失を想定した下限シナリオ(対応策込みで提示)
このように複数シナリオで計画を示すことで、「この経営者はリスクも含めて考えている」と買い手の信頼を得やすくなります。
また、アップサイドの実現には何が必要か?を逆算することで、アクションプラン(次項)にも説得力が生まれるのです。
ステップ4:具体的なアクションプランで実現性を担保
売上や利益の将来予測は、数字だけを提示しても説得力に欠けます。
「この数字を、どうやって実現するのか?」を裏付けるために必要なのが、アクションプラン(実行計画)です。
買い手が注視するのは、主に以下の要素です。
- 新規出店、エリア拡大、オンライン展開などの戦略的施策
- 営業体制の強化(人員増・KPI管理・インセンティブ制度)
- 商品開発・サービス改善のスケジュールやロードマップ
- IT・設備投資の内容と投資額、回収シミュレーション
- 資金調達計画との整合性(自己資金、融資、補助金など)
例えば、ある飲食チェーンでは、店舗あたりの平均売上・人件費率を前提に、出店シミュレーションを提示。
さらに厨房オペレーションの効率化によるコスト改善計画まで数値化したことで、買い手から「計画にリアリティがある」と高評価を得ました。
重要なのは、アクションと数値目標をKPI(重要業績評価指標)で結びつけることです。
「営業人員を5名増員」→「月次訪問件数を20%増加」→「受注率が3ポイント向上」→「月間売上1,000万円増」……といった因果関係が明確になれば、計画全体の信頼性が一段と高まります。
ステップ5:買い手とのシナジー効果をシミュレーション
5億円超のM&Aにおいては、「買収後にどう変わるか」も買い手にとって重要な視点です。
したがって、買収後の統合(PMI:Post Merger Integration)による“1+1が3になる”ストーリーを描くことが必要です。
シナジーの代表例としては以下があります。
- 販路拡大:買い手の既存チャネルに自社商品を載せることで売上増
- クロスセル:買い手と自社の商品を組み合わせた提案で客単価UP
- コスト削減:重複部門の統廃合、スケールメリットによる仕入原価の低減
- 技術統合:研究開発やITシステムの相互補完による効率化
例えば、ある製造業の案件では、買い手の調達網を活用することで原材料コストを10%削減できると試算。
そのシミュレーションをExcelベースで提示したところ、「シナジーが明確で価値がある」と買い手の投資委員会で高く評価されました。
ただし注意したいのは、過度に楽観的な見積もりは逆効果になるという点です。
「売上が2倍」「利益が3倍」など極端な前提は警戒されがちです。
試算は現実的かつ保守的な範囲で。それでも充分に魅力的であれば、買い手は納得します。
ステップ6:組織・人材面の継続性と成長性を示す
買い手にとって、事業の継続性を担保する最大のリスクは、「属人化」です。
特にオーナー経営者のワンマン体制で事業が回っている場合、その人物が抜けた後に機能不全になる懸念があります。
そのため、事業計画書には以下のような情報を盛り込むと効果的です。
- 幹部・キーパーソンの名前、役割、残留意向
- マネジメント層のスキルセットと補完関係
- 後継者候補の育成計画と進捗
- 社内制度・マニュアルの整備状況(標準化の進み具合)
- 業績評価制度や人事考課の仕組み
以前支援した建設業のM&Aでは、工事部門の責任者3名が10年以上の在籍で「買収後も残留意思あり」と明記。
あわせて、技術継承用の動画マニュアルを整備中であることを提示したことで、買い手は属人性への懸念を払拭できました。
「人が辞めない会社」「引き継ぎがスムーズな体制」は、買い手にとって価格以上に重要な安心材料となります。
ステップ7:リスク要因の正直な開示と対応策の提示
最後に欠かせないのが、ネガティブ情報の開示と、その対応方針の明記です。
多くの売り手は「弱みを見せたくない」と考えますが、これは危険です。
買い手はDDの過程で必ずリスクを洗い出します。
そのとき初めて問題が発覚すれば、信頼を大きく損ない、最悪の場合は破談にもつながりかねません。
開示すべき主なリスクには以下があります。
- 特定顧客への依存度が高い(上位3社で売上の50%以上など)
- 法規制の変更リスク(許認可、業界規制など)
- 技術革新による代替リスク(陳腐化の可能性)
- 労務問題、係争中の訴訟、環境リスクなど
これらについては、「どんなリスクがあるのか」だけでなく「どう対応しているか」までセットで示すことが重要です。
たとえば、「特定顧客依存度が高いが、既に新規販路開拓プロジェクトを立ち上げ、今期末までに依存率を30%まで低減予定」といった形です。
こうした“誠実な情報開示”こそが、最終的に買い手の信頼を獲得する最大の武器になります。
5億円超の売却を実現する交渉テクニック
複数買い手を競わせる戦略的アプローチ
M&Aにおいて「交渉力」=「選択肢の数」です。
買い手候補が一社だけである場合、交渉の主導権は完全に相手に握られます。
一方で、複数の買い手が関心を示している状況では、価格も条件も大きく改善される余地があります。
このとき有効なのが、「競争的プロセス(コンペ形式)」を活用する手法です。
一般的な流れは以下のとおりです。
- ノンネーム資料配布 → 興味喚起
- 秘密保持契約(NDA)締結 → IM提供
- 初期面談・質疑応答 → 意向表明書(LOI)の取得
- 複数LOIを比較し、選抜した候補と最終交渉
この流れの中で、意向表明書(LOI)を複数社から引き出すことが、交渉の武器になります。
提示価格だけでなく、譲渡スキーム、従業員の処遇、クロージング時期なども含めて比較できます。
実際、私がサポートしたある物流企業のケースでは、当初は1社のみが興味を示していました。
しかし、別業界のストラテジック・バイヤーにもアプローチし、「物流網の拡張」という視点から興味を引き出すことに成功。
結果、2社の入札競争が発生し、最終的な譲渡価格は当初案より1.5億円上昇しました。
情報開示のタイミングにも工夫が必要です。
重要資料(顧客別売上、キーパーソン情報など)は、LOI提出後に開示することで、“本気の買い手”だけに戦略的情報を渡せる仕組みを作れます。
デューデリジェンス対応で差をつける準備術
買い手の意向が固まると、次に待っているのが「デューデリジェンス(DD)」、いわゆる買収監査です。
この段階では、会計・税務・法務・人事・IT・環境など、あらゆる角度からの調査が行われます。
多くの経営者がこのプロセスを「買い手に丸裸にされる場」と捉えていますが、実は「信頼を勝ち取る最後のチャンス」でもあります。
具体的に、以下のような資料を事前に整備し、事業計画書と整合性を保って提示できるかが大きな差になります。
- 売上・利益の推移とその裏付け(顧客別、事業部別)
- 主要顧客の契約書・取引履歴(継続性を示す)
- 従業員の雇用契約書、就業規則、離職率データ
- 設備の稼働状況、メンテナンス履歴
- 許認可・特許・商標などの知的財産の保有状況
過去には、売り手側がExcelベースの「デューデリ対応リスト」を事前に作成していたことが評価され、買い手から「ガバナンスがしっかりしていて安心感がある」と言われた案件もありました。
また、事業計画書で掲げたKPIと、現場の実態(営業活動報告・月次会議資料など)に矛盾がないかをチェックされます。
一貫性のある開示こそが、DDでの信頼構築の鍵なのです。
価格以外の条件交渉で総合的な満足度を高める
M&Aの成否を分けるのは、「価格」だけではありません。
むしろ、譲渡後の人・お金・責任に関わる“非価格条件”こそ、経営者にとって重要な論点です。
代表的な交渉ポイントとして、以下のようなものがあります。
- 従業員の雇用維持条件(何年間継続するか)
- 経営陣の処遇(役職・給与・任期など)
- オーナー個人保証の解除(金融機関との連携が必要)
- のれん分割と税務処理の取り扱い
- 対価の支払い方法(一括/分割/アーンアウト)
たとえば、あるオーナー経営者は「従業員の雇用が守られるなら、価格は多少譲ってもいい」と考えていました。
その意向を事前に整理し、買い手に「最低3年間は雇用維持」「一部の管理職は昇格予定」といった提案を引き出したことで、極めて円滑な成約に至りました。
また、「アーンアウト(成果連動型報酬)」を活用すれば、初期売却価格を抑えつつ、業績達成後に追加報酬を得ることも可能です。
これは特に、将来計画に挑戦的な要素が含まれる場合に有効なスキームです。
ケース別アプローチ:業種・規模に応じたカスタマイズ
事業計画書は“テンプレート”ではありません。
同じ5億円規模の企業でも、業種やビジネスモデルによって、買い手が重視するポイントは大きく異なります。
ここでは特に、買収対象として人気の高い2業種――IT・サービス業と製造業・小売業――に絞って、計画書作成の勘所をご紹介します。
IT・サービス業の事業計画書で重視すべきポイント
IT・サービス業のM&Aでは、「無形資産の定量化」が最大のテーマになります。
具体的には、収益構造と再現性、技術資産、人材確保状況の3点を中心に評価されます。
① SaaS・サブスク型の場合
- MRR(Monthly Recurring Revenue)/ARR(年間経常収益):成長率が年10〜20%を超えていれば高評価
- チャーンレート(解約率):月次3%未満が良好、1%台なら優良企業扱い
- LTV/CAC(顧客生涯価値と獲得コスト):3倍以上なら営業効率が高いと判断される
たとえば、あるSaaS企業では、「チャーン率1.8%」「LTV/CAC=4.2倍」といったKPIを計画書に明記。
さらに、KPI改善のための具体策(オンボーディング強化、カスタマーサクセスチーム拡充)を盛り込むことで、価格評価が1.2倍に上昇した実例があります。
② 技術者・知的財産・ロードマップ
- エンジニアチームの構成(内製/外注、スキルレベル)
- プロダクトの開発ステージと今後のロードマップ(ベータ版→正式リリース→バージョンアップ)
- 保有特許や商標、ソースコードの管理体制など
計画書では、技術者の継続勤務意向や、プロダクトの差別化要因を非エンジニアにもわかる言葉で説明することが求められます。
また、コードレビュー体制やセキュリティガイドラインの有無など、品質保証の裏付け情報も重要視されます。
製造業・小売業での差別化ポイント
一方で、製造業・小売業では「物理的資産と業務プロセスの安定性」が重視されます。
特に、在庫管理・生産体制・品質管理(QC)・人材定着率が評価ポイントとなります。
① 設備投資と稼働率
- 工場・設備の耐用年数と稼働状況(老朽化リスクの有無)
- 将来的な更新計画と投資額の見通し
- 生産能力と受注残の関係(設備がボトルネックになっていないか)
例えば、ある機械部品メーカーでは、主力ラインの平均稼働率が90%超、3年以内の増設計画ありという情報を開示。
この「伸びしろ」と「先手の投資計画」により、中堅事業会社が倍以上の評価額を提示したという事例もあります。
② 在庫回転率とサプライチェーン
- 在庫の滞留状況(死蔵在庫の割合)
- 調達先の依存度・リスク分散(単一ベンダー依存はマイナス評価)
- 物流体制の効率性(配送コスト、納期遅延率)
小売業の場合は特に、SKU管理(品番数管理)と在庫回転率が重要なKPIです。
「1日平均在庫額/日商」のような指標が2.0を下回っていれば、在庫効率が良好とされます。
③ 品質管理と人材定着率
- クレーム件数、リコール歴、ISO取得状況
- 熟練工の平均勤続年数や退職率
- 作業工程のマニュアル化、トレーニング体制の有無
属人性の高い技術やノウハウをどこまで“組織知”に落とし込めているかが、継続性の判断基準になります。
そのため、現場写真・組織図・教育マニュアルの一部を計画書に添付するのも効果的です。
このように、「業種に応じた“買い手の見るポイント”に合わせて事業計画書をチューニングする」ことで、企業価値は一段と高まります。
一般的な雛形やフォーマットでは不十分です。
自社の強みが“伝わるかたちで伝わる”ように設計し直すことが、買い手の納得と高評価を引き出す鍵なのです。
よくある失敗事例と回避策
どれだけ魅力的な事業計画書を作っても、売却交渉全体の進め方を誤ると、大きな損失につながることがあります。
実際、私がこれまで見てきた案件の中でも、「もう少し早く相談してくれていれば防げたのに…」と感じた失敗は数多くあります。
ここでは、5億円超の中堅・中小企業M&Aで特に多い3つの失敗パターンと、その回避策を具体的にご紹介します。
失敗例1:過度な高値期待による交渉決裂
「この会社なら、最低でも10億は付くだろう」——。
根拠のない“願望価格”をもとに交渉を進めた結果、買い手候補が次々に離脱し、最後は破談となった案件を、私は何度も見てきました。
買い手は、感情ではなく収益性・成長性・リスクのバランスで価格を判断します。
その基準のひとつが、EBITDA倍率(企業価値/営業利益)です。

中小企業M&Aの相場では、
- 一般的な業種:5〜6倍
- IT・医療・SaaSなど高成長性業種:7〜10倍
- 特殊技術・独自顧客基盤を持つケース:10倍超も可能
というのが実務感覚です。
仮にEBITDAが8,000万円の企業なら、企業価値は約4〜5億円が相場というわけです。
回避策としては、第三者の評価レポート(簡易バリュエーション)を活用し、相場感とギャップを可視化することです。
また、類似企業のM&A事例を収集・比較しておくことも、買い手との“現実的な対話”を始めるうえで有効です。
失敗例2:相性を軽視した買い手選定の落とし穴
価格だけを優先し、企業文化やビジョンの合わない買い手と交渉を進めた結果、クロージング後に社員の大量離職が発生し、数年で業績が急落したという痛ましい事例もあります。
特に、創業社長のもとで一体感のある組織が育っていた中小企業では、
- 外資ファンドによるドラスティックな経営改革
- 本社主導のトップダウン型経営への移行
- ローカル色や裁量の剥奪
といった変化が、従業員の“心”を大きく揺さぶるケースがあります。
このようなリスクを回避するためには、価格交渉に入る前にトップ面談を複数回行うことが有効です。
その際には、以下のような点を丁寧に確認しましょう。
- 買い手の経営スタイルと意思決定プロセス
- 統合後の組織運営方針と人材活用戦略
- 自社の価値観や理念に対する共感の有無
失敗例3:情報管理の甘さが招く信頼失墜
M&Aプロセスの中盤以降、従業員や取引先に“売却の噂”が漏れたことによって、事業継続に支障が出たケースも散見されます。
たとえば、
- 経理担当者が資料整理の中で気づき、社内に噂が拡散
- 仲介会社が不用意に外部と接触し、競合他社に情報が流出
- DD中に外注先にヒアリングを実施し、サプライヤーに動揺が走る
このような情報漏洩は、買い手にとっては「ガバナンス不全の証拠」として評価を大きく下げる要因になります。
そこで重要なのが、「段階的な情報開示計画」と「キーパーソンへの根回し」です。
具体的には、
- 初期段階では経営層+信頼できる実務責任者のみで対応
- LOI取得後に、対象社員への個別説明(守秘義務の同意を得る)
- クロージング直前で全社的に公表し、統合方針を丁寧に説明
という流れが基本です。
特に、現場を支えるキーパーソンには早期に説明し、信頼関係を築いておくことが、プロジェクトの成功に不可欠です。
売却は「一人の意思決定」ですが、「多くの人を巻き込むプロセス」だという視点を持ちましょう。
2025年最新!中小M&A支援制度と活用法
中小企業にとって、M&Aは「ハードルの高いプロセス」だと思われがちです。
しかし、近年は国の支援体制が急速に整備されており、専門家の活用や手数料の透明化、税制上の優遇措置などが拡充されています。
2025年時点で、売り手経営者がぜひ知っておくべき最新制度のポイントと、その活用法を整理してお伝えします。
改訂版「中小M&Aガイドライン」で何が変わったか
2024年8月、経済産業省・中小企業庁が策定する「中小M&Aガイドライン(第3版)」が改訂されました。
この改訂は、“売り手保護”の観点を強く打ち出したもので、実務に与える影響も大きくなっています。
主な改訂ポイントは以下のとおりです。
① 仲介手数料の透明化義務
これまでブラックボックスだったM&A仲介会社の報酬体系について、
- 着手金/中間金/成功報酬の内訳
- リーマン方式か定額方式か
- 成功報酬の算出根拠(譲渡対価・負債込みか)
などを書面で明示する義務が導入されました。
「気づけば高額手数料を取られていた」という事例を防止できます。
② 利益相反の防止策の明文化
同一の仲介者が売り手と買い手の両方を支援する「両手取引」においては、
- 双方の書面同意が必要
- 利益相反時の対処法を事前に取り決める
- 専任担当者の分離対応などを推奨
といった対応が明記され、売り手の利益が損なわれないよう保護される枠組みが強化されました。
③ テール条項の制限
成約後に後追いで報酬請求される「テール条項(後発報酬規定)」についても、
- 適用期間を原則1年以内とする
- 対象となる買い手を特定した上で明示
- 条項発動の条件を明文化
といった制限が新設され、不透明な報酬請求のリスクを大幅に低減できます。
税制面の留意点と専門家活用のススメ
M&Aでは、譲渡価格以上に「税引後にいくら手元に残るか」が重要です。
税務の取り扱いを誤ると、数千万円単位の損失につながることもあります。
2025年時点で、売り手が押さえるべき税務上の論点は次のとおりです。
① 株式譲渡益課税:原則20.315%
M&Aによる株式売却は「譲渡所得」として課税され、税率は約20.315%(所得税15.315%+住民税5%)です。
特例がない限り、これは基本的に回避できません。
ただし、複数年にわたる分割払い(分割譲渡)の場合には、受取時点での課税となり、税負担の平準化や資金繰り対策につながる可能性があります(会計税務の個別判断要)。
② 「のれん償却」見直しの議論
近年、買い手側の税務戦略として重要な「のれんの償却」(買収価額と純資産の差額を5年で償却)について、国際会計基準(IFRS)に合わせて償却廃止も検討されているとの報道があります【注2】。
これは、将来的に買い手の節税メリットが縮小する可能性がある=結果として譲渡価格に影響することを意味します。
売却タイミングの判断材料として、今後の制度動向に注視すべきです。
③ 事業承継税制の適用可否
親族や従業員への承継を検討する場合には、2025年以降も継続される予定の「事業承継税制」を検討すべきです。
ただし、M&A(第三者承継)では原則として対象外です。
→活用のヒント:
M&A税務は非常に専門的で、契約スキームによって納税額が大きく変わります。
したがって、セカンドオピニオンを含む税理士・会計士の早期関与が不可欠です。
特に「M&Aに精通した税務専門家」かどうかを見極めることが、失敗回避のポイントとなります。
よくある質問(FAQ)
Q:事業計画書作成にはどれくらいの期間が必要ですか?
A:通常は1〜3ヶ月程度ですが、前倒しの準備がカギです。
事業計画書の作成期間は、会社の規模や情報の整理状況によって異なりますが、おおむね1〜3ヶ月が標準的な目安です。
特に以下のような準備工程が必要になります。
- 過去の財務データの洗い出しと調整(実態損益の把握)
- 市場分析・競合比較・顧客分析の資料集め
- 将来シナリオの策定とKPI設計
- 必要に応じて税理士・財務アドバイザーとの連携
私の経験上、「早く着手した経営者ほど、結果的に高値で売却している」傾向があります。
なぜなら、精度の高い計画書は買い手の信頼を得るだけでなく、その後のDD(デューデリジェンス)や交渉でも“整合性ある情報”として活用できるからです。
なお、M&Aプロセス全体では6ヶ月〜1年が一般的です。
その中でも事業計画書は「最初に作って最後まで使う資料」なので、できるだけ早く取り組むことをおすすめします。
Q:買い手は計画の「背伸び」をどこまで許容しますか?
A:年率10〜20%程度の成長であれば許容範囲です。
買い手が将来計画を見るときに気にするのは、「その数字は実現できそうか?」という“現実味”です。
過去の実績からかけ離れた急成長のシナリオには、慎重になります。
ただし、業界平均成長率+α程度の挑戦的な目標(10〜20%)であれば、十分に許容範囲です。
その際には以下のような「根拠」をセットで提示しましょう。
- 新規出店計画(いつ、どこに、何店舗)
- 営業人員の増員や教育投資
- 商品やサービスの投入スケジュール
- クロスセル/アップセルの具体的手法
また、あえて“背伸び”した計画を提示する場合は、アーンアウト条項(成果連動型の後払い)で買い手とのリスク共有を図る方法もあります。
これにより、「達成すれば追加報酬」というWin-Winの設計が可能になります。
Q:赤字企業でも5億円超の売却は可能ですか?
A:将来の収益性と改善ストーリーが明確なら、十分可能です。
一時的な赤字や経常ベースの赤字であっても、「実態損益が黒字」「改善余地が明確」「成長市場にポジションを持つ」といった条件がそろえば、買い手は十分に魅力を感じます。
実際に、私が支援したIT系企業では、販管費先行投資により赤字決算が3期続いていましたが、
- MRRが安定成長していた
- チャーンレートが低く、LTVの高さが際立っていた
- 数百社の法人顧客を抱えていた
という要素が評価され、ファンド系買い手による再生型買収(エグジット前提)で5.2億円の企業価値が付きました。
つまり、赤字かどうかではなく、「本当の価値をどう見せるか」「改善可能性をどう伝えるか」がすべてです。
事業計画書での“再建シナリオ”の描き方が、まさに分かれ目となるのです。
まとめ
事業計画書は、単なる数字の羅列ではありません。
それは、経営者の想いと企業の将来性を買い手に伝える「未来の提案書」です。
特に企業価値5億円を超える規模のM&Aでは、買い手は徹底的に“将来のリターン”を見極めようとします。
そのときに、買い手の視点で整理された計画書があれば、交渉を有利に進められる武器となります。
本記事では、実務の現場から導き出した「7つの作成ステップ」をご紹介しました。
- 実態財務の見える化
- 市場分析とポジショニング
- バランスの取れた将来シナリオ設計
- アクションプランとKPIの提示
- シナジー効果のシミュレーション
- 組織・人材の継続性の明示
- リスク要因の誠実な開示
加えて、競合プロセスの活用やDD対応、非価格条件の交渉術といった実戦的テクニック、そして2025年最新の制度・税制の解説を通じて、今まさに使えるM\&A実務ノウハウをお届けしました。
どれも、私自身が支援現場で繰り返し体験してきた“生きた知見”です。
M&Aは、決して“会社を手放す”ための手段ではありません。
それは、会社の想いと価値を未来につなぐ“経営戦略”です。
そして、その第一歩が、「自社の魅力を言語化し、数字で語ること」。
つまり、事業計画書の構築こそが、M&Aの出発点なのです。
まずは手元の数字を整理し、自社の棚卸しから始めてみてください。
その過程で「ここは自分だけでは難しい」と感じたら、遠慮なく信頼できる専門家に相談を。
私は、かつて父が経営する中小企業の承継問題に悩んだ当事者として、「経営者が納得して意思決定できるM&A支援」を何よりも大切にしています。
M&Aは情報戦。情報こそが、経営者の武器です。
その武器を正しく使えるよう、ぜひ本記事の内容をヒントに、次の一歩を踏み出していただけたら幸いです。
参考文献
[1] 中小企業庁「中小M\&Aガイドライン第3版」, 2024年8月公開予定草案
[2] PwC Japan「中小企業向けDD項目チェックリスト 2025年版」
[3] Deloitte「M&Aシナジー評価手法レポート 2024年改訂版」