M&A売却後も会社は新たな形で発展を続ける。経営者の決断が従業員と地域社会の未来を守り、創業理念は次世代に引き継がれていく。
M&Aによる会社売却を決断した経営者の多くが、「会社がなくなってしまう」という喪失感や罪悪感を抱えています。
しかし、実際にはM&Aは会社の消滅ではなく、新たなステージへの発展です。
私自身、金融機関時代に多くの経営者の売却プロセスに立ち会い、その心理的葛藤を目の当たりにしてきました。
ある製造業の創業者は、売却を決めた後も「従業員に申し訳ない」と涙を流されていました。
しかし3年後、その会社は売上が2倍に成長し、従業員数も1.5倍に増えていたのです。
本記事では、売却決断後の経営者が直面する心理的負担の実態と、それを乗り越えるための具体的な方法について、実例を交えながら解説します。
経営者の皆様が前向きな気持ちで次のステップに進めるよう、心理的なサポートとなる情報をお届けします。

谷口 友保
株式会社M&Aコーポレート・アドバイザリー
1971年埼玉県上尾市生まれ。1994年東京大学経済学部経営学科卒業、同年公認会計士2次試験合格。翌年同学部経済学科を卒業後、三和銀行(現三菱UFJ銀行)に入行。1996年にM&A専門の株式会社レコフへ。2007年、株式会社M&Aコーポレート・アドバイザリーを設立し代表取締役に就任。
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M&A売却決断後の経営者が抱える心理的負担の実態
「創業者の手を離れる」ことへの喪失感
「この会社は私の人生そのものでした」
私が担当した食品製造業の社長(68歳)は、売却を決めた後、こう語りました。
創業から40年、朝から晩まで会社のことを考え、従業員と共に成長してきた会社。
それが自分の手を離れることへの喪失感は、想像以上に大きいものです。
【経営者が感じる主な喪失感】
- アイデンティティの喪失:「社長」という肩書きを失うことへの不安
- 従業員への責任感:「裏切り者」と思われるのではないかという恐れ
- 地域社会での立場の変化:地元の名士としての役割の喪失
- 日常の変化:毎日の出社という習慣がなくなることへの戸惑い
経営者の約47.3%が「心の不調」による症状を経験しているという調査結果[1]があります。
特に売却決断後は、「夜眠れなくなった」(64.8%)、「食欲がなくなった」(30.3%)といった身体的症状も現れやすくなります。
私が見てきた経営者の中には、売却後に急激に老け込んでしまった方もいました。
会社という生きがいを失った喪失感は、それほど大きいのです。
周囲からの評価への不安と罪悪感
「会社を売った経営者」
この言葉には、まだネガティブなイメージがつきまといます。
特に地方では「身売り」「敗北」といった見方をされることも少なくありません。
ある建設会社の経営者は、売却を決めた後、取引先から「そんなに経営が苦しかったのか」と心配されたそうです。
実際には業績好調での売却だったにも関わらず、周囲の誤解に苦しみました。
【経営者が直面する評価への不安】
- 従業員からの視線:「自分たちを見捨てた」と思われないか
- 取引先の反応:信頼関係が崩れるのではないか
- 家族の理解:特に創業者の配偶者や子供からの理解を得ることの難しさ
- 地域社会での評判:「あの会社も売られた」という噂話
しかし、経営者年齢が若い企業ほど「プラスのイメージになった」とする割合が高いという調査結果[2]もあります。
M&Aに対する見方は、世代によって大きく変わりつつあるのです。
アイデンティティの揺らぎと将来への不安
「私は一体何者なのか」
売却を決めた経営者の多くが、この問いに直面します。
長年「○○会社の社長」として生きてきた人が、その肩書きを失うことの影響は計り知れません。
心の不調要因の上位は「資金繰り」45.1%、「将来の見通し」44.4%という調査結果[1]が示すように、売却後の人生設計への不安も大きな負担となります。
【アイデンティティの揺らぎが引き起こす問題】
◆ 自己価値感の低下
└ 「社長」でなくなった自分に価値があるのか
◆ 社会的役割の喪失感
└ 毎日の仕事がなくなることへの不安
◆ 人間関係の変化
└ 仕事関係の付き合いが減ることへの寂しさ
◆ 時間の使い方への戸惑い
└ 急に増えた自由時間をどう使えばよいか
なぜ「会社がなくなるわけじゃない」という視点が重要なのか
M&Aは「終わり」ではなく「新たな始まり」
私がM&Aの現場で最も印象に残っているのは、ある精密機器メーカーの事例です。
創業者は当初、「会社を手放すことは敗北だ」と考えていました。
しかし、売却から5年後、その会社は買い手企業のグローバルネットワークを活用し、海外売上比率を10%から40%に拡大。
従業員数も50名から120名に増加していました。
「私一人では、ここまで会社を大きくできなかった」
創業者は後にこう語っています。
【M&Aがもたらす新たな可能性】
- 資本力の強化:設備投資や研究開発への積極投資が可能に
- 販路の拡大:買い手企業のネットワークを活用した市場開拓
- 人材の充実:優秀な人材の採用・育成機会の増加
- 経営ノウハウの導入:最新の経営手法やシステムの活用
中小企業のM&A成約件数は、2012年に比べて2017年では3倍超となっており[3]、成長戦略としてのM&Aが定着していることがわかります。
創業理念と企業文化の継承
「会社の魂は売らない」。
これは、私が関わったある老舗企業の経営者の言葉です。
M&Aでは、会社の所有権は移転しますが、創業の理念や企業文化まで消えるわけではありません。
創業理念を継承するための工夫は色々あります。
経営理念の明文化
- 創業の想いを文書として残す
- 従業員向けの理念浸透プログラムの実施
企業文化の可視化
- 社内の暗黙知を形式知化
- 独自の仕事の進め方をマニュアル化
買い手企業との価値観の共有
- 事前の面談で理念への共感を確認
- PMI(統合プロセス)での文化融合への配慮
実際、多くの買い手企業は、売り手企業の強みである企業文化を大切にしています。
なぜなら、それこそが競争力の源泉だと理解しているからです。
地域経済と取引先への継続的な貢献
M&Aによって会社の基盤が強化されれば、地域経済への貢献も継続・拡大します。
私が担当した地方の部品メーカーは、売却後に生産能力が2倍に拡大。
地元での新規雇用を50名創出し、地域の協力会社への発注額も大幅に増加しました。
【M&Aがもたらす地域への好影響】
- 雇用の維持・拡大:安定した経営基盤による雇用創出
- 取引先との関係強化:発注量の増加や新規取引の開始
- 地域ブランドの向上:大手グループ傘下による信頼性向上
- 税収への貢献:業績向上による地方税収の増加
心理的負担を乗り越えるための実践的アプローチ
感情の整理と受容のプロセス
心理的負担を乗り越える第一歩は、自分の感情を否定せずに受け入れることです。
経営者の心理状態が判断力に大きな影響を及ぼすという研究結果[4]もあります。
まずは自分の感情と向き合い、整理することが重要です。
【感情整理の5ステップ】
STEP1:否認期
└ 「本当に売却してよかったのか」という迷い
→ これは正常な反応です
STEP2:怒り期
└ 「なぜ自分がこんな決断を」という憤り
→ 感情を押し殺さず、信頼できる人に話しましょう
STEP3:取引期
└ 「もっと良い条件があったのでは」という後悔
→ 過去ではなく未来に目を向けましょう
STEP4:抑うつ期
└ 喪失感や虚無感に襲われる時期
→ 専門家のサポートを受けることも検討しましょう
STEP5:受容期
└ 新たな人生への前向きな気持ち
→ ここまで来れば、次のステップが見えてきます
新たな役割とアイデンティティの構築
売却後の人生設計は、早めに考え始めることが大切です。
売却後も社長や会長職、もしくは譲渡先の役員等として残り、会社の成長に引き続き携わるという選択肢も珍しくありません。実際、私が関わった案件の約7割で、売却後も何らかの形で元経営者が会社に関与していました。
会社との関わり方の選択肢:
- 技術顧問として週2〜3日、若手への技術指導
- 営業アドバイザーとして重要顧客との関係維持
- 経営相談役として月1回程度の経営会議参加
一方で、まったく新しい道を歩む経営者も増えています。
シリアルアントレプレナーとして、得られた売却益を元手に次のビジネスを始める方もいれば、エンジェル投資家として若い起業家を支援する道を選ぶ方もいます。
ある製造業の元社長は、「今度は自分が若い経営者を育てる番だ」と語り、地元の起業家支援に情熱を注いでいます。
社会貢献に目を向ける経営者も少なくありません。
NPO法人を設立して社会課題の解決に取り組んだり、地域活性化プロジェクトのリーダーとして活躍したりする例も見てきました。
サポートネットワークの構築と活用
一人で悩みを抱え込まないことが、心理的負担を軽減する鍵となります。
日本では経営者向けメンタルヘルスサポートはほとんど導入されていないのが現状ですが、利用できるサポート資源はあります。
経験者からのサポート
最も心強いのは、同じ経験をした経営者たちのコミュニティです。M&A経験者の会や経営者団体での情報交換は、「自分だけじゃない」という安心感をもたらしてくれます。
私がお世話になったある経営者は、売却後の虚無感に悩んでいましたが、先輩経営者から「その気持ち、よくわかるよ。私も同じだった」と言われて、初めて心が軽くなったそうです。
専門家の活用
- 産業カウンセラーへの相談
- エグゼクティブコーチング
- M&A仲介会社のアフターフォロー
専門家によるサポートは、心理的な側面だけでなく、新たな人生設計を専門的な視点から支援してもらえる点でも価値があります。
家族・友人との絆
そして何より大切なのは、家族や古くからの友人との対話です。特に配偶者とは、売却後の将来設計をじっくりと話し合う必要があります。
仕事を離れて古い友人と再会すると、「社長」ではない素の自分を取り戻すきっかけにもなるでしょう。
M&A仲介会社の中には、OB経営者を紹介してもらったり、売却後の悩みを相談できる窓口を設けていたりと、継続的なサポートを受けられる場合もあるので、積極的に活用することをお勧めします。
売却後も前向きに歩んだ経営者たちの事例
事例1:製造業A社の創業者(72歳)の場合
創業から45年、従業員80名の精密部品メーカーを経営していたA氏。
後継者不在と業界再編の波を受け、大手メーカーへの売却を決断しました。
売却直後の心境
「最初の3ヶ月は、毎朝5時に目が覚めても行く場所がない虚しさに襲われました。従業員からは『裏切り者』と言われるのではないかと、会社の近くを通ることすら避けていました」
転機となった出来事
売却から半年後、元従業員から連絡がありました。「社長のおかげで、今まで挑戦できなかった新製品開発ができるようになりました。設備投資も進んで、みんな生き生きと働いています」
現在の活動
- 週2日、技術顧問として新製品開発をサポート
- 地元の工業高校で月1回の特別講師
- 若手経営者向けの勉強会を主宰
「会社は私の手を離れましたが、培ってきた技術と経験は次の世代に引き継がれています。今は『会社の親』から『良き祖父』になった気分です」
事例2:サービス業B社の二代目社長(58歳)の場合
父から継いだ地域密着型のサービス業(従業員120名)を、全国チェーンに売却したB氏。
売却の決断理由
「デジタル化の波に乗り遅れ、このままでは競争に負けると感じました。従業員の雇用を守るためには、資本力のある企業と組むしかないと決断しました」
売却後の新たな挑戦
売却益の一部を元手に、まったく新しい事業を立ち上げました。地域の高齢者向けのデジタル支援サービスです。
心理的な変化のプロセス
- 1~3ヶ月:罪悪感と不安の日々
- 4~6ヶ月:新事業の準備に没頭
- 7~12ヶ月:少しずつ手応えを感じ始める
- 現在:「第二の創業」として充実した日々
「売却は『逃げ』ではなく『攻め』の決断でした。おかげで58歳にして、もう一度起業家精神を燃やすことができています」
よくある質問(FAQ)
Q: 売却後、従業員から「裏切り者」と思われないか心配です。どう対応すべきでしょうか?
A: 売手は「従業員が解雇されるのではないか」と心配しますが、買手も「従業員が辞めてしまわないか」と心配しているものです。
私が見てきた成功事例では、売却の理由と従業員の雇用継続・キャリア発展の可能性を誠実に伝えることで、理解と協力を得られています。
重要なのは、売却の真の理由(会社の発展のため)、従業員の雇用は守られること、より良い労働環境になる可能性の3点を明確に伝えることです。
Q: 売却後の空虚感や喪失感はどのくらい続くものでしょうか?
A: 個人差はありますが、多くの経営者は3~6ヶ月程度で新しい生活リズムに慣れ始めます。
最初の1~2ヶ月は強い喪失感がありますが、3~4ヶ月目には新しい生活に慣れ始め、半年後には新たな目標や楽しみを見つけている方が多いです。
重要なのは、この期間を「移行期」として認識し、無理に前向きになろうとせず、自然な感情の変化を受け入れることです。
Q: 売却を後悔することはありませんか?どう対処すればよいでしょうか?
A: 一時的な後悔の念を抱くことは自然な反応です。
大切なのは、売却を決断した当時の理由を振り返り、その時点でのベストな判断だったかを冷静に考えることです。
多くの場合、振り返ると最善の選択だったことがわかります。
また、売却後の会社の発展を見守ることで、決断の正しさを実感できることも多いです。
Q: 家族、特に配偶者や子供にどう説明すればよいでしょうか?
A: 家族には売却の理由と今後の人生設計について、早い段階から相談することをお勧めします。
なぜ今なのかというタイミングの理由、家族と過ごす時間が増えるなどのメリット、売却後の生活設計、経済的な安定性について丁寧に説明しましょう。
特に配偶者は長年支えてくれたパートナーですから、売却後の人生を一緒に設計することで、新たな夫婦関係を築くきっかけにもなります。
Q: 売却後も会社に関わり続けることは可能でしょうか?
A: 多くの場合、顧問やアドバイザーとして一定期間関わることが可能です。
買い手企業も、スムーズな事業承継のために創業者の知見を求めることが多く、技術顧問として週2~3日の技術指導をしたり、営業アドバイザーとして重要顧客との関係維持を担ったりするケースがあります。
契約時に役割と期間を明確にすることで、お互いに気持ちよく協働できます。
Q: 売却で得た資金の使い道について悩んでいます。アドバイスはありますか?
A: まずは十分な時間をかけて検討することが大切です。
選択肢としては、老後の生活資金の確保、第二の創業やエンジェル投資などの新事業への投資、財団法人設立などの社会貢献活動、子供の教育資金や孫への贈与といった家族への還元、学び直しや健康維持などの自己投資があります。
信頼できるファイナンシャルアドバイザーと相談しながら、自身の価値観に合った活用方法を見つけることをお勧めします。
まとめ
M&Aによる会社売却は、経営者にとって人生の大きな転換点となります。
「会社がなくなる」という喪失感や心理的負担は決して軽視できるものではありません。
しかし、売却は会社の終わりではなく、新たな成長への第一歩です。
後継者問題が解決しない場合、2025年頃までに最大約650万人の雇用と約22兆円分のGDPが喪失されるという試算[5]もある中、M&Aは日本経済にとっても重要な解決策となっています。
創業者の理念は引き継がれ、従業員には新たな機会が生まれ、事業はより大きな規模で社会に貢献し続けます。
PMIの成功には長期的な取り組みが求められ、創業者のリーダーシップが必要になる場面が多くあります。
私がこれまで見てきた多くの経営者は、初期の心理的負担を乗り越え、売却後も充実した人生を送っています。
重要なのは、自身の感情を受け入れ、適切なサポートを受けながら、前向きな未来を描くことです。
あなたが築き上げた会社は、新たな形で生き続けます。
その誇りを胸に、次のステージへ踏み出してください。
経営者の決断は、会社を「終わらせる」ものではなく、「永続させる」ための勇気ある選択なのです。
参考文献
[1] 経営者の約半数が「心の不調」を感じた経験あり!, 株式会社Awarefy, 2023年10月17日
[2] 中小企業庁:2021年版「中小企業白書」第2節 M&Aを通じた経営資源の有効活用
[3] 2 M&Aの現状, 中小企業庁
[4] 和田秀樹さん「見落とされている企業経営者の「心」のケア」, 日本の人事部, 2020年3月10日
[5] 事業承継が問題になっている背景と解決策としてのM&A, fundbook, 2023年10月24日