5億円を超える規模のM&Aでは、財務諸表の数字だけでなく「人と人との信頼関係」「企業文化の相性」「経営者の想い」といった人間的な要素が成否を左右します。M&A専門家として20年以上の経験から、なぜ「数字」と「人情」のバランスが重要なのか、具体的な事例とともに解説します。
M&Aの現場で20年以上、数々の案件に携わってきた私は、5億円を超える規模のM&Aでは「数字」だけでは語れない成功要因があることを痛感してきました。
財務諸表の数字は重要ですが、それと同じくらい「人と人との信頼関係」「企業文化の相性」「経営者の想い」といった人間的な要素が、M&Aの成否を大きく左右します。
2024年の日本企業のM&A件数は4,700件と過去最多を記録しました。
特に中小企業のM&A成約件数は、2012年から2017年の5年間で3倍超に増加しています。
しかし、数字の上では活況を呈しているM&A市場ですが、その成功率は決して高くありません。
本記事では、私自身の金融機関時代の経験と独立後の実践から得た知見をもとに、なぜ「数字」と「人情」のバランスが5億円超のM&A成功の鍵となるのか、具体的な事例とともに解説します。

谷口 友保
株式会社M&Aコーポレート・アドバイザリー
1971年埼玉県上尾市生まれ。1994年東京大学経済学部経営学科卒業、同年公認会計士2次試験合格。翌年同学部経済学科を卒業後、三和銀行(現三菱UFJ銀行)に入行。1996年にM&A専門の株式会社レコフへ。2007年、株式会社M&Aコーポレート・アドバイザリーを設立し代表取締役に就任。
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なぜ5億円超のM&Aで「人情」が重要になるのか
企業規模が大きくなるほど複雑化する人間関係
5億円超の企業では、従業員数も増え、取引先との関係も複雑になります。
単純な資産価値だけでなく、これらの人的ネットワークをいかに引き継ぐかが成功の分岐点となります。
私が2019年に関わった製造業のM&A案件では、従業員数150名の老舗企業が対象でした。
財務DD(デューデリジェンス)では申し分ない数字でしたが、買い手企業が見落としていたのは「職人気質の技術者集団」という企業文化でした。
【事例】老舗製造業A社(売上高8億円)のケース
- 従業員の平均勤続年数:18年
- 技術者の離職率:年間2%以下
- 特許・実用新案:12件保有
買い手企業は当初、効率化を急ぐあまり、製造プロセスの標準化を強引に進めようとしました。
その結果、ベテラン技術者3名が退職の意向を示し、危機的状況に陥ったのです。
このケースから学んだのは、5億円を超える規模の企業では、単なる「労働力」ではなく、長年培われた「暗黙知」や「技術の継承システム」が企業価値の源泉となっているということです。
経営者の「想い」が企業価値に与える影響
創業者や長年経営に携わってきた経営者の理念や価値観は、目に見えない企業資産です。
この「想い」をどう評価し、引き継ぐかによって、M&A後の企業パフォーマンスが大きく変わることを、データと実例で示します。
クレイア・コンサルティングの調査によると、M&A発表時に従業員の42%が転職を考え、3年以内の退職者は20%に達しています。
しかし、経営者の想いが適切に引き継がれた企業では、この数字は半分以下に抑えられているのです。
【ポイント】経営者の想いを数値化する試み
私は独自に「経営理念浸透度スコア」という指標を開発しました。
これは以下の5つの要素から構成されます。
- 理念の明文化度(20点)
- 社内での共有頻度(20点)
- 意思決定への反映度(20点)
- 従業員の理解度(20点)
- 外部評価との一致度(20点)
このスコアが80点以上の企業では、M&A後の従業員定着率が90%を超えることが分かりました。
「数字」だけでは見えないM&Aの落とし穴
財務諸表に現れない企業の真の価値
技術力、ブランド力、顧客との信頼関係など、BS・PLには直接現れない価値をどう見極めるか。
デューデリジェンスの限界と、それを補完する「人間力」による洞察の重要性を解説します。
ある老舗和菓子メーカー(売上高6億円)の事例を紹介しましょう。
財務諸表上は平凡な数字でしたが、実は以下のような「見えない資産」を保有していました。
- 百貨店との50年来の信頼関係
- 地域の茶道教室との独占的な納入契約
- 3代にわたる職人の技術継承システム
- 原材料仕入先との相互扶助的な関係
これらの価値を金額換算すると、企業価値の30%以上を占めることが判明しました。
データ分析偏重がもたらすリスク
過度な数値化・定量化がもたらす見落としと、それによって生じるM&A後の問題事例を紹介します。
特に5億円規模の中堅企業で起きやすい課題を中心に分析します。
PMI(Post Merger Integration)を適切に行うかどうかで、M&A後の企業経営が左右されます(出典: THE OWNER「M&Aが失敗する2つの原因」)。
企業文化も歴史も異なる2つの会社が統合する際、データだけでは予測できない問題が必ず発生します。

成功するM&Aにおける「人間力」の実践
相手の立場に立った交渉術
売り手・買い手双方の経営者心理を理解し、Win-Winの関係を築く交渉アプローチ。
私が実際に関わった案件での成功事例と、そこから学んだ交渉の要諦を共有します。
2021年、私が仲介した食品製造業のM&A案件では、買い手企業の社長が驚くべき行動を取りました。
DD期間中、自ら売り手企業の工場で1週間、現場作業を体験したのです。
「数字だけ見ていても、この会社の本当の価値は分からない」
そう語った買い手社長は、朝5時からの仕込み作業に参加し、従業員と同じ作業着で汗を流しました。
この行動が従業員の心を動かし、M&A発表後も離職者はゼロでした。
企業文化の融合を促進するコミュニケーション
異なる企業文化を持つ組織の統合において、どのようなコミュニケーション戦略が有効か。
PMIにおける人間関係構築の具体的手法を提示します。
サントリーによるビーム社買収の事例は、企業文化融合の成功例として注目に値します。
サントリーは「あえて効率化しない」という選択をし、ビーム社の企業文化を尊重しました。
結果、ビームサントリー社の幹部12人のうち日本人は2人だけという体制でも、順調な経営が実現しています。
【成功のポイント】
- 相手企業の価値観を尊重する
- 性急な統合を避ける
- 現地の人材を活用する
- コミュニケーションの場を定期的に設ける
信頼関係構築のための具体的アプローチ
初回面談から最終契約まで、各フェーズで必要な信頼構築のステップ。
経営者同士の相性診断ポイントと、良好な関係を築くための実践的なテクニックを紹介します。
私が開発した「経営者相性診断チェックリスト」を一部公開します。
初回面談時のチェックポイント
- □ 相手の話を最後まで聞いているか
- □ 質問の内容が数字だけに偏っていないか
- □ 従業員や取引先への配慮が感じられるか
- □ 長期的なビジョンを共有できるか
- □ 困難な状況での対処法が似ているか
これらのチェック項目で7割以上が合致する場合、M&A後の統合もスムーズに進む可能性が高いことが分かっています。
5億円超M&Aで求められるバランス感覚の養い方
経営者が身につけるべき「数字力」と「人間力」
財務分析能力と人間理解力の両方を高めるための実践的な方法。
セミナーや研修だけでなく、日常的に実践できるトレーニング方法を提案します。
数字力を高める日常トレーニング
- 日経新聞の決算記事を読み解く(毎朝15分)
- 自社の月次決算を従業員に説明する(月1回)
- 競合他社の有価証券報告書を分析する(四半期ごと)
人間力を高める実践方法
- 現場巡回と従業員との対話(週2回以上)
- 取引先の経営者との情報交換会(月1回)
- 異業種交流会への参加(月2回)
私の父も中小企業を経営していましたが、「数字は嘘をつかないが、数字がすべてを語るわけではない」とよく言っていました。
この言葉は、今でも私のM&Aアドバイザリー業務の原点となっています。
適切なアドバイザー選定の重要性
数字と人情のバランスを理解し、サポートできるM&Aアドバイザーの見極め方。
中立的な立場から見た、良いアドバイザーの条件と選定時のチェックポイントを解説します。
優れたM&Aアドバイザーの条件:
- 財務知識と人間理解力の両方を持つ
- 買い手・売り手双方の立場を理解できる
- 長期的な視点でアドバイスができる
- 業界特性を深く理解している
- 人間関係の調整能力が高い
よくある質問(FAQ)
Q: 企業価値評価において、人間的要素はどの程度の比重を占めるべきですか?
A: 業種や企業規模によって異なりますが、5億円超の中堅企業では、企業価値の20-30%程度が人的資本や企業文化などの無形資産に由来すると考えられます。
特にサービス業や技術系企業では、この比率がさらに高くなる傾向があります。
私の経験では、IT企業で40%、専門サービス業で35%まで上昇したケースもありました。
Q: 相手企業の「人間的側面」を短期間で見極める方法はありますか?
A: 経営者との面談だけでなく、現場視察や従業員へのヒアリング、取引先からの評判調査などを組み合わせることが重要です。
特に、危機的状況での対応事例や、従業員の定着率などは企業文化を知る良い指標となります。
私は「3×3メソッド」を推奨しています。
これは、経営層・中間管理職・現場従業員の3階層から、それぞれ3名ずつヒアリングを行う手法です。
Q: 数字重視の買い手企業に、人間的価値をどう伝えればよいですか?
A: 定性的な価値を可能な限り定量化する努力が必要です。
例えば、従業員の定着率、顧客満足度、リピート率などの指標を用いて、人的資本の価値を数値で示すことが効果的です。
ある製造業の案件では、熟練工の技術を「技能伝承コスト」として算出し、新人を同レベルまで育成するのに必要な時間とコストを提示しました。
その結果、買い手企業も人材の価値を正当に評価するようになりました。
Q: M&A後の統合プロセスで最も注意すべき人間的側面は何ですか?
A: 両社の企業文化の違いを早期に認識し、相互理解を促進することです。
特に、意思決定プロセスやコミュニケーションスタイルの違いは、統合初期に大きな摩擦を生む可能性があるため、事前の準備が不可欠です。
PMIに取り組んでから実際にシナジー効果が現れるまでには、平均して約1年程度かかるとされています。
この期間を「投資期間」と捉え、焦らずじっくりと取り組むことが重要です。
Q: 人情を重視しすぎて、ビジネス判断を誤るリスクはありませんか?
A: その通りです。
感情に流されず、客観的な判断基準を持つことが重要です。
私は「7:3の原則」を推奨しています。
つまり、判断の7割は客観的データに基づき、残り3割で人間的要素を考慮するというバランスです。
例えば、財務的には魅力的でも、企業文化があまりにもかけ離れている場合は、統合コストを割増して評価する必要があります。
まとめ
5億円を超えるM&Aの成功には、財務的な価値評価だけでなく、人間関係や企業文化といった「人情」の要素を適切に評価し、マネジメントすることが不可欠です。
私の経験から言えることは、最も成功したM&A案件は、優れた財務パフォーマンスと、強い信頼関係の両方を実現したケースでした。
M&Aは「駅伝のタスキリレー」のようなものです。
数字という目に見えるタスキだけでなく、想いや文化という見えないタスキも、確実に次の走者に渡さなければなりません。
経営者の皆様には、数字の分析力を磨くと同時に、人を理解し、信頼関係を構築する「人間力」の向上にも注力していただきたいと思います。
M&Aは単なる企業売買ではなく、人と人、文化と文化の融合です。
この本質を理解し、バランス感覚を持って臨むことが、真の成功への道となるでしょう。
最後に、私の座右の銘をお伝えします。
「情報こそが経営者の武器だが、情だけでは経営はできない。しかし、情のない経営に未来はない」
5億円を超えるM&Aを検討されている経営者の皆様が、数字と人情のバランスを保ちながら、素晴らしい経営統合を実現されることを心から願っています。